沿革

History

神道無念流と戸賀崎家剣五代について

はじめに神道無念流の創始者について

神道無念流の創始者は福井兵右衛門嘉平で、元禄15年(1702)、下野国都賀郡藤葉村(現栃木県下都賀郡壬生町)に生まれ、幼名を川上善太夫と称し、当時下野国南部一帯に勢力をもっていた天神正伝神道流の流れをくむ一円流を牧野円泰に学んだ。その後諸国へ武者修行に出立し、よき師を求めて多年遍歴したが、自らの意にかなう人には出会えなかった。そのような折、信濃国戸隠山の飯縄の神が霊験あらたかであると聞き、信濃に行って神に祈り宿願を遂げようとした。こうして、この飯縄大権現に参籠すること50日、老人との不思議な体験をもとに剣の奥義を悟り、一派を立て神道無念流を称するようになった。そして、兵右衛門嘉平は元文5年(1740)38歳の時、四谷に道場を開き弟子をとるようになった。後の、神道無念流宗家の初代戸賀崎熊太郎暉芳は福井兵右衛門の一番弟子であった。

戸賀崎家の家系について

戸賀崎家の祖先は遠く新田義貞から出て、一時は武州菖蒲領の戸賀崎城の城主となって戸賀崎を氏としたが、天正9年(1581)戸賀崎隼人義氏が清久にきて帰農し、隠れ郷士となった。その義氏から8世(一説には9世)が初代戸賀崎熊太郎暉芳であると伝えられている。
熊太郎暉芳は武士の出という誇りからか剣術に対する関心が高かったとのことである。

当時の剣術界と社会情勢について

当時の剣術界は、まだ一般庶民を対象とした新興流派の勢力は弱く既成流派の時代で、関東では群馬の馬庭念流が隆盛を誇り、江戸では中西派一刀流の中西忠蔵子武と直新影流の長沼四郎左衛門国郷が  防具を考案し、剣術の練習法に一大変革をもたらしはじめた頃で、埼玉にあっては川越(鐘捲流)、忍(浅山一伝流)、岩槻(直新影流)、岡部(無限流)の各藩において武術が稽古されている程度であった。
しかし、この頃から地方の有力者による土地の集積がはじまり、地主などの有力者が農耕以外の余業に力を注ぐ余裕が生れると同時に農民の階層分化が激しくなり、武蔵国一帯で百姓一揆が頻発し、富農や富商が狙われるようになった。その為、富農や富商たちは自衛手段をとらなければならなくなり、自ずから農民の間に剣術に対する関心が高まっていった。

神道無念流戸賀崎家剣5代について

初代 戸賀崎熊太郎暉芳 (1744年~1809年)

初代 戸賀崎熊太郎暉芳像(個人蔵) 開祖福井兵右衛門先生から初代暉芳への免許皆伝書(個人蔵)

名を暉芳、号を知道軒と称した。暉芳は元右衛門を父として延享元年(1744)1月1日、武蔵国埼玉郡上清久に生まれた。幼少から武士の出という誇りに加えて人並みはずれた体格と負けん気が、剣術への関心をいやがおうでも高めさせ、いつも木を削っては木刀を作り、剣術の真似事をして遊んでいたという。 
そして、ついに剣術に対する情熱を制しきれず江戸に出て、四谷に道場を開いていた神道無念流流祖福井兵右衛門嘉平に入門した。ときに宝暦9年(1759)で、熊太郎暉芳16歳、福井兵右衛門58歳であった。円熟の境に達していた流祖のもとに弟子入りした熊太郎暉芳は強大な体格の上に、人に倍する稽古熱心さは、その腕をめきめき上達させ、明和元年(1764)には21歳の若さで皆伝の印可をうけた。その後約7年間、28歳(明和8年・1771)の頃まで諸国を修行して歩き、郷里の上清久に帰って道場(4間×8間=32坪)を開設し近隣の子弟の教導にあたるようになった。

道場開設後、上清久の田舎で近隣の子弟を教導しながら江戸に出る機会を窺っていた熊太郎暉芳は、安永7年(1778)チャンス到来とばかりついに出府し、江戸裏二番町(現千代田区麹町二番町)の門奈孫一郎の地内に道場を設けて、「神道無念流戸賀崎熊太郎暉芳」の名乗りをあげた。ときに熊太郎暉芳35歳であった。この江戸における道場の門人は、3,000人と言われているが門人帳が現存していないので確たる証拠はない。勤王の志士高山彦九郎正之も門人の1人で、江戸に出てきた時には必ず熊太郎暉芳を訪ね、大いに時事を論じあったといわれる。

また、熊太郎暉芳は、神道無念流の起源や修行態度から心の持ち方にいたるまでを教え諭した「壁書」を道場に掲げて、道場訓とした。その「壁書」の内容は、230年後の今日でも十分通用するものと考えられるので、原文のまま抜萃して後記する。

初代 戸賀崎熊太郎暉芳像(個人蔵) 開祖福井兵右衛門先生から初代暉芳への免許皆伝書(個人蔵)

2代 戸賀崎熊太郎胤芳 (1774年~1818年)

2代 戸賀崎熊太郎胤芳像(個人蔵) 初代暉芳から胤芳への免許皆伝書(個人蔵)

幼名を和一、名を胤芳、号を有道軒と称した。戸賀崎家剣2代の胤芳は、熊太郎暉芳の嫡男として安永3年(1774)2月2日、いまの久喜市上清久144番地のこの地に生まれた。父暉芳が31歳のときに生まれた男の子ということもあって、幼時から父について剣術を習い始めた。熊太郎暉芳が江戸裏二番町に構えた安永7年(1778)、胤芳4歳で江戸に移り、父をはじめ、その高弟たちについて技術を磨くうちに非凡の才能を発揮しはじめた。皇国武術英名録に、胤芳の履歴の中で「剣道ヲ研究シ、技夙ニ成ル、術亦天品ニ出ズ」と記述されていることから推しても剣技は親譲りの優れたものであったといえる。しかし、寛政7年(1795)12月、父の帰郷と行を共にし、上清久の道場で、父を助けて門弟の指導にあたるようになった。ときに胤芳21歳である。ここで疑問に残ることは、何故胤芳の父暉芳が18年にわたって築き上げた江戸の道場を、その時31歳で胤芳と10歳しか違わない岡田十松吉利(現羽生市砂山出身)に譲り、上清久に身をひいたのかということである。

その明確な理由はわからないが、岡田十松吉利の剣技や人格、識見ともに抜群であったから、江戸の道場は岡田十松に、郷里の道場は  胤芳にまかせて、神道無念流のさらなる発展を期そうという配慮からであったと思うのが、後の神道無念流の発展からしてごく自然である。

「皇国武術英名録」によると胤芳は文化元年(1804)から文化6年までの5年間、門弟の指導の合間をみては、主に奥州方面(水戸から福島に出て会津地方へ)を巡回し武者修行するのが慣例であった。  それは、かって(安永5年・1776)粕壁宿(現春日部市)で熊太郎暉芳に敗れて師弟の契りを結んだ関戸政七という剣客が奥州白河にいてその手引きをしたものといわれている。

胤芳35歳の文化6年(1806)5月に熊太郎暉芳は他界したので家督を継ぐと同時に「熊太郎」を襲名し有道軒と号したのである。その後、熊太郎胤芳は文化14年の暮れに病気になり、年を越しても快復のきざしがみえず、余命いくばくもないと直感し、高弟の木村定次郎(上州桐生在堤村・現群馬県桐生市出身)と中村万五郎(武州埼玉郡東方村・現埼玉県越谷市出身)の両名を枕元に呼び、この二人に流祖の福井兵右衛門から父熊太郎暉芳、胤芳と受け継がれてきた伝書と、まだ11歳という年少の長男芳栄の後見を託し、45歳という働き盛りで文政元年(1818)2月28日他界した。

2代 戸賀崎熊太郎胤芳像(個人蔵) 初代暉芳から胤芳への免許皆伝書(個人蔵)

3代 戸賀崎熊太郎芳栄 (1807年~1865年)

3代 戸賀崎熊太郎芳栄像(個人蔵)

幼名を和一、名を芳栄、号を喜道軒と称した。有道軒熊太郎胤芳の長男として文化4年(1807)2月15日武蔵国埼玉郡上清久村(現久喜市上清久144番地)に生まれた。
幼少より英邁で、剣の道にも学問にも秀でていたので祖父知道軒熊太郎暉芳の風格をあわせもっていたといわれる。芳栄は文政元年(1818)2月28日11歳で父を失い、それ以後は父の高弟である木村定次郎友義と中村万五郎政敏の両後見人に師事して厳しい修行を積んだ。祖父や父から受け継いだ剣の血筋の良さはあらそえず、文政6年(1824)若冠16歳にして神道無念流の奥義を極めるにいたった。

そこで、木村定次郎、中村万五郎の両後見人は、亡き師の熊太郎胤芳から託されていた神道無念流の極意書を、清久の道場とともに芳栄に渡した。熊太郎芳栄は、ここに戸賀崎家剣三代を受け継いだのである。そして、文政7年(1824)には門弟18名をつれて短期の武者修行に出た。その行き先は不明であるが、岸和田にしばらく逗留して剣術の指導したといわれている。武者修行から帰宅して邸前に、祖父知道軒熊太郎暉芳、父有道軒熊太郎胤芳の遺徳を偲ぶ「知道軒 戸賀崎先生衣蹟之蔵」の碑を建てた。ときに文政7年5月のことであった。翌年の文政8年(1825)には、今度は単身で近畿、中国地方へ武者修行の旅に出た。

その後、熊太郎芳栄は、天保12年(1841)には江戸に出て、牛込に道場を開設して門弟の育成をはじめた。水戸藩主の烈公徳川斉昭は、熊太郎芳栄の高名を耳にして、水戸藩への仕官を熱心に勧めたが、応じる気配も見せなかった。しかし、遂にその知遇にこたえて烈公の客分となって5人扶持をもらい、剣術指南の職についた。その後も更に厚遇を受け、50人扶持となり、上士に列せられたが、門弟の中には桜田門外の変に加わった多くの武士もいたといわれている。また、水戸の弘道館が開設されるや剣技教授につき、神道無念流を水戸藩公認のものとしたのである。天保12年に開設した道場は、その後、徳川斉昭の内命により、弘化4年(1847)に本郷3丁目に移し、さらには安政5年(1858)に小石川の舟河原橋へ移したのである。その道場は剣術の稽古のほか常に時局政談の会場になっていて、尊皇攘夷の思想に傾倒していく水戸藩論の形成に大きな役割を果たしたといわれている。こういったことから熊太郎芳栄の門人のなかには水戸藩士が多かったが、それだけでなく芳栄の名声を慕って集まる剣士は関東一円におよんでいるのをみても、その隆盛を窺い知ることができる。

そのほか、熊太郎芳栄は元治元年(1864)門人が父の仇討ちを果たす後見人にもなっている。芳栄は、慶應元年(1865)5月29日、幕末期に回天の一翼をになうほどの活躍をしながら、明治の新時代をみることなく他界した。

3代 戸賀崎熊太郎芳栄像(個人蔵)

4代 戸賀崎熊太郎芳武 (1839年~1907年)

4代 戸賀崎熊太郎芳武像(個人蔵)

幼名を和一、名を芳武、号を尚道軒と称した。喜道軒熊太郎芳栄の長男として天保10年(1839)2月10日武蔵国埼玉郡上清久村(現久喜  市上清久144番地)に生まれた。生後2年目の天保12年(1841)に父 芳栄が江戸の牛込に道場を開設したので、父と一緒に江戸へ出た。道場は牛込の地から弘化4年(1847)に本郷3丁目に、そして安政5年(1858)には小石川の舟河原橋に移ったので芳武はこれらの道場で少年時代から青年時代にかけて、父熊太郎芳栄をはじめ多くの門弟について修行に専念した。当時の江戸では、神道無念流の分家的な存在であった斉藤弥九郎(初代熊太郎暉芳の弟子の岡田十松が師)の「練兵舘」が隆盛を極め、江戸の三大道場の一つ(他の二つは、桃井春蔵の「士学舘」・千葉周作の「玄武舘」)として名声を博していたので、芳武も足繁く「練兵舘」に通って、自ら剣技の修行に努めた。また、芳武は代々受け継がれてきた剣の血筋は正しく、門弟たちが芳武に寄せる期待と信頼は絶大であったといわれている。芳武の父熊太郎芳栄が水戸藩主徳川斉昭に厚遇され、水戸の弘道舘道場の指南として多くの門弟の育成にあたっていたので、芳武自身も青年時代から水戸藩士と交流があった。はっきりした年代はわからないが、芳武も父熊太郎芳栄の没後、水戸藩に仕え剣術指南役として50人扶持に給せられた。

幕末にピリオドを打ち明治の新時代を迎えようとする時期、江戸は混乱の巷に化そうとしたとき幕府は剣術の達人たちを集めて市中警備の任にあたらせた。熊太郎芳武もこれに加わり門人たちを引き連れて町奉行関口権助とともに江戸警護の大役を勤めた。明治時代になり、明治4年(1871)に廃刀許可令が、さらに明治9年に廃刀令が具体化されると剣術は衰亡の一途をたどったので、熊太郎芳武は江戸における剣術指南に見切りをつけて、明治11年(1878)に郷里の上清久村に引き揚げ、ここで郷村子弟の教導にあたった。ときに熊太郎芳武40歳、人生のなかで最も油ののった年齢であったといえよう。

明治維新以降、日進月歩の勢いで近代化に邁進する社会情勢と裏腹に旧幕府時代に脚光を浴びていた剣術も衰微の兆候がますます強くなる中にあって、地方では未だ剣術に対して愛着を持つ者が多く、熊太郎芳武が生家に帰ると芳武の剣技を慕って毎日早朝から何百人という子弟が近隣の各村から道場に通ってきたと伝えられている。

当戸賀崎家に残る起請文の一つに、明治13年から明治40年にかけて誓詞血判した門人が約200名も数えられることは、それを明確に裏付ける証拠であるということができる。熊太郎芳武は明治40年(1907)4月3日、切腹して自らの生命を絶った。

その理由は、私(8代正道)が祖父守恵(6代・1886~1968)聞いた話を含め推測すると、明治28年に現代剣道の最初の組織「大日本武徳会」が創設され、全国的に発展し、明治37年~38年の日露戦争の結果、その真価が認識されて、再び脚光を浴びようとしていた情勢下において、芳武自身が実戦的剣術を体得していたことと比較し、明治の中期から急激に隆盛にむかった実用的でない剣道に妥協しきれなかったからだということになる。

4代 戸賀崎熊太郎芳武像(個人蔵)

5代 戸賀崎熊太郎清常 (1865年~1921年)

幼名を保之進、名を清常、号を好道軒と称した。尚道軒熊太郎芳武の長男として慶応元年(1865)1月、上清久村のこの地に生まれ、幼少の頃から父熊太郎芳武に師事し剣術を学んだ。戸賀崎家剣5代として父祖の業を受け継ぎ、上清久の道場を主宰した。世相が急速に近代化の風潮が高まるなか、また、日露戦争から軍国主義がすすむなか、こと志と違うため、剣術以外の事業にも手を出し、慣れない事業の失敗などにより、その憤懣を酒で紛らす日々が続くうち、初代熊太郎暉芳から百年以上も命脈を保ち続け、この地域一帯に剣術を通して社会教育センタ-的な役割を担い、青少年の教導に一役買っていた道場も清常が57歳で病没(大正10年・1921)する前に閉鎖された。

戸賀崎家は、剣初代熊太郎暉芳以来、五代にわたった剣士が家伝の業を継ぎ、神道無念流の名声を知らしめたということができる。

神道無念流演武場壁書(抜萃)

天下のために文武を用いれば治乱に備うるなり。一治、一乱は世のならわしなれば、治にも乱を忘れずとぞ。されば武芸はしばらく廃すばからざること、いわずして知るべし。 (中略) そもそも剣は死生を瞬間の間に決するわざなれば、その法をくわしくせずんばあるべからず。法のくわしきは学の熟するにあれば、わが門に入るものは中道にして廃することなく、学ぶの上にも学び、ついにその極に至らんことを願うべきものなり。

一、武は戈を止むる義なれば、少しも争心あるべがらず。

争心ある人は必ず喧嘩口論をなす。喧嘩口論に及べばまた刃傷にいたらんもはかりがたければ、剣を学ぶ人は心の和平なるを要とす。されば短気、我慢なる人はかえって剣を知らざるをよしとす。

一、喧嘩口論はいうに及ばず、私の意趣、遺恨などに決して用うべからず。

これ剣の暴なり。戦陣君父の仇の如きに用いれば義のあるところなり。これすなわち武の徳なり。

一、堪忍の二字は万事にわたれば、怒をおさえるを第一とす。

剣を学ぶ人は、格別これを心得べし。わずかの争いより刃傷に及び、ついに我が身をほろぼし、我が家を失えば、子は親に対し、臣は君に対し、不孝不忠の罪いかんせん。しかのみならず、その師まではずかしむ。深くおそれ、慎むべし。

一、他流をそしるべからず。剣を知らざる人に向いて、おのれの芸をほこりとすべからず。

卒爾に試合いたすべからず。およそ長をあらそい、誉れをきそうは、いやしき心なり。

上の条々天銘心肝ものなり。

神道無念流戸賀崎練武道場 遺跡の改修

県道151号線(久喜・騎西線)に面して神道無念流戸賀崎練武遺跡としての石碑が4基建立されています。そのうちの1基は、天明8年(1788年)初代戸賀崎熊太郎暉芳が建立した石碑で流祖 福井兵右衛門嘉平の伝記や神道無念流の起源について後世に残した石碑です。この石碑の碑文が220年の歳月を経過した今日、かなり風化し、劣化したので石碑を新設し、併せて改修工事をしました。

遺跡の外観
遺跡の外観
新設した石碑